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旅をたどる1

バトパハ川の風にふかれれば – マレーシア ジョホール州 バトパハ(Batu Pahat)

1900年代の初めに、たくさんの日本人が住んでいた街バトパハには、日本人クラブがありました。そこにはまだ当時の空気が残っていたようなに感じました。

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そのバトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は、旅装をとき、しばらく逗留することになった。

・・・ 金子光晴 「マレー蘭印紀行」(中公文庫)

 バトパハ (Batu Pahat) は、マレーシア半島南端のジョホール州の中部、バトパハ川がマラッカ海峡に入る手前数キロにところにあります。バトパハの主な産業は農業と製造業であり、ジョホール州ではジョホールバルについで二番目に発展している町のようです。詩人の金子光晴さんが1920年ごろアジアを放浪したとき、このバトパハという町に滞在しました。当時は、日本人が経営するゴム農園が周辺にあって、日本人クラブができるほどこの町にはたくさんの日本人がいたそうです。

日本人クラブ

 ジョホール州の州都ジョホールバルからバスに乗り、途中ヤシの木がきちんと並んだ丘の斜面を突っ切る高速道路をぬけ、二時間ほどの距離でした。町のバスターミナルに着き、あたりをぐるっと歩き回って、当時の日本人クラブを見つけました。建物は全体的にあせたクリーム色をしています。三階建ての屋上の隅には、鐘つき堂のようなものが見えます。とりあえず、道路の反対にある建物の軒下のベンチで休むことにしました。

 ベンチといっても、赤いレンガを二つ積んだ上に細い板を一枚渡しただけの作りです。ここは日陰になっていて、それほど暑くありません。横には太りぎみの若い男が座っています。何をするわけではなく、ただ座っています。丈の長い灰色の服を着て、同じ灰色の縁のない小さめの帽子をかぶっています。さっき彼が座ってきた時に、「日本人ですか?」と英語で話しかけてきたので、「そうです。あの建物は古いですね」と日本人クラブだった建物を指さすと、彼はニコニコしながら「yes」と言いました。英語を話せるのです。これは情報を入手するチャンスです。「昔あの建物は日本人クラブだったことを、知っていますか?」と聞くと、また「yes」と言ってきました。この古いだけの建物を見に来た物好きな日本人だと知って、話かけてきたのでしょう。もしかすると、大学でバトパハの歴史を研究している学者かもしれません。「ずいぶん古くなっていますが、今は何に使われているのですか?」と聞くと、若者はニコニコしながら「yes、yes」と答えました。ペットボトルのなまあたたかい水を一気に飲みました。

バトパハ川

 マレー蘭印紀行には、日本人クラブの前の川に渡船場があると書かれていますが、今は何かの役所になっているようです。中をのぞいてみます。出入口の門の横に守衛所のような小さな建物がありました。人気はありません。川を見るには、ここの敷地に入ることになります。無断で入り住居侵入で逮捕される可能性はあるなと考えていた時、岸に着いた小型の木造船から、よく日に焼けた顔の戸外労働者風のやせた男たちがまとまりなく降りてきました。身ぶりで「写真が撮りたいので、中に入ってよいか」と彼らに問いかけます。そのうちの一人が、「おお、だいじょうぶだ」というふうに、笑いながら大きくぐるぐる右腕を回してくれました。進入許可をもらったので、堂々と川岸まで進みます。川の水は茶色で、水面には入道雲が反射してくっきりと見えました。対岸にはニッパ椰子が群れていて、葉先を水の中に落としています。荷物を載せたやけに平べったい船が、音もなくすっと過ぎていきました。水面の入道雲がゆらゆらとゆがみます。この景色は、日本人クラブ全盛期と、あまり変わっていないのかもしれないと思いました。

天后廟

 マレー蘭印紀行に書かれた天后廟は、旧日本人クラブから歩いて15分ほどのところにありました。屋根にオレンジ色のかわらが載っていて、てっぺんには龍がはっています。軒下には線香がたくさんつるされています。直径1メートルほどの蚊取り線香のような形の線香の中心を天井からつっているので、重みで外側の線香が垂れ下がり、とんがり帽子のような形になっています。廟の正面には野球のバットよりも太い三本の線香がたかれていて、もわわと煙を上げています。地元の人たちが、お参りのために出入りしているのが見えます。天后は海の神様だと聞いていました。海から奥に入ったバトパハの、まわりに水気のないこの場所に、なぜか廟が建てられているのです。廟の中で売られていた宝くじを、顔や腕が黒く日に焼けた小柄な男から一枚調達しました。

公興茶餐室

 街を歩き回っているうちに、足が重くなってきたので、公興茶餐室という店に入りました。天井では、白い大きなファンがそろそろとまわっています。そこの主人が「この建物は1926年にできた」と教えてくれます。しかし、建物全体が当時のまま残っているのは、屋根の部分と二階の一部だと説明してくれました。この町の人たちは、昔ながらの建物を修理しながら、大事に使いつづけているのでした。

ベンチと猫

 旧日本人クラブへとって返します。さっきのレンガと木のベンチに少し座っていようかと思いました。途中にある市場は商売を終えて、すっかり人がいなくなっています。おや、ベンチには先客がいました。白黒の猫です。気持ちよさそうに、ベンチの下で寝入っています。バトパハ川の方から風がさらさらと吹いてきて、ベンチのある軒下も通ります。猫は身動きせずにいます。もしかすると、この猫はさっきの若者かもしれないと思いました。せっかく眠りにきたのに私がベンチに座っていたから、人間の姿になって追い払おうとしたのでしょう。ぞうりの片方が、なぜか手前に落ちています。猫が右目をあけて、ちらりとこちらを見たような気がしました。

黒い雲

 軒下に立って持ってきたマレー蘭印紀行を読んでみます。「日本人クラブは、この地で働く日本人たちの大切な中継地だった。ゴム園や鉄山から人が出てきて、ここに集まった。日本の新聞が配達されていた。三階の廊下では、子どもたちに勉強を教えていた。いくつもの寝台があって、だれでも自由に使えた。そばにはカッピー店があり、人々が用をたしていた。となりの市場で、中華料理を食べられた」といいます。ここに自分と同じ日本人たちが暮らしていて、笑ったり泣いたりしていたのです。当時は、本当に日本から遠かったのでしょう。建物をよく見ると、窓は朽ちてペンキは落ち、屋上の鐘楼の上からは、一本の雑草がひょろひょろと伸びています。傾きながらテレビのアンテナが立っています。不規則な模様のひびが、壁に線を引きます。二階と三階は、人が使っている気配が感じられません。この建物の身の構えに、これまで吸い込んできた歴史を感じました。ここもじきに新しいビルに代わるのだろう。その前にこの町に来て、この光景を見ておいてよかったと、何とはなしに思いました。

 バトパハ川の風に吹かれながら空を見上げれば、まっ白なはっきりとした入道雲の手前に灰色のぼんやりとした雲がするすると割り込み、スコールの準備を静かに進めているようでした。

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