旅をたどる6
安政二年の品川宿へ寄る – 東京都品川区東品川
JR品川駅とそばにある高層マンション群を見て、「東海道の品川宿なんて、とっくにないんじゃね?」と言うかもしれませんが、まだ江戸の昔にトリップできる場所があります。
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旅をたどる6
「颶風がくる」と、かれは又叫んだ。天気晴朗の日でも品川の海には突然颶風を吹き起こすことがある
・・・岡本綺堂『半七捕物帳(三)』(光文社文庫)
江戸の古地図を見ていると、ひょろひょろと流れる目黒川が江戸湾に入るあたりに、東海道の品川宿が広がっていることがわかりました。川は海に出る寸前に北の方向へほぼ直角に曲がり、陸に沿って砂洲がありました。おそらく、半七親分が活躍していた頃、潮干狩りの名所だったのでしょう。そして、颶風(はやて=突風)も襲ってきたのでしょう。
古地図には、砂洲の先端に弁才天仙伏院と書いてあります。現在の地図と合わせると、弁才天は利田(かがた)神社になっているようです。弁才天まで続く砂洲の真ん中にあった道も、その形からすると、今も残っています。そこには猟師がたくさん住んでいて、魚や海苔をとるその人たちを守った神様が、弁才天だったのでしょう。
京浜急行電鉄の新馬場駅からふらふらと歩き、砂洲あたりにたどり着きました。車が一台通ることができる程度の道の両側には、二階建ての住宅が並んでいます。定規で引いた線のようにまっすぐではなく、やさしく左にカーブしながら続いている道の風体は、昔からここにある証拠です。この通りの両側の砂場では網が干され、採った海苔を天日にあてていたのでしょう。この突き当りにある利田神社は、住宅とバス通りにはさまれて立っていました。創建は、1626年だそうです。裏手には、掘割のような狭い水路が見えました。白い釣船が置かれています。神社の横を流れていた目黒川には船がごたごたに置かれていて、船づたいに対岸へ渡ることができたほどだと、半七捕物帳に書いてあります。神社の境内に入ると、黒くなった一対のこま犬が出迎えてくれました。どこのお寺も神社もそうですが、境内に一歩入ると、まわりの音が消えて急に静かになるのは、なぜなのでしょう。利田神社も、そのようでした。
神社には水の神様である弁才天をお祭りしていますので、猟師の人たちには特に大切な神社だったはずです。半七捕物帳には、このあたりに海賊が出てきたようなことも書いてあります。神社に安全を祈願したのでしょう。空を見上げると、青空の手前にはぽつぽつと白い雲が浮いている程度で、突風など来る気配はありません。また、左右を見てみましたが、当然ながら、海賊たちがどんと飛び出してくるような状況でもありませんでした。
こま犬の造られた時期を見ようと、像の後ろへ回るとき、側面に神紋を見つけました。ミツウロコに波のしぶきがかかっています。確かミツウロコは、北条氏に関係ありと覚えています。なぜここに? もしや落ち武者伝説? あとで少々調べてみると、この神紋は、江の島にある江島神社の神紋とかなり似ていることがわかりました。江島神社も、弁天様をお祭りしています。もしかすると、この利田神社は、江島神社をお参りした人がお札を持ち帰り、ここに勧請したのが始まりかもしれません。この二つの神社の間につながりがあることは、ほぼ間違いないと思われました。
何やかんや妄想も終わり、鳥居から出ようとすると、石の門柱があることに気が付きました。鳥居と拝殿の間に、参道をはさむようにして一対が立っています。なぜここに門が? 向かって右の門の正面に、何か彫ってあります。どうやら、「魚がし」と書いてあるふうに見えます。「し」は、うなぎの姿で描いた文字のようです。魚河岸、ですか? いいえ、ここは神社です。左の門にも同じように彫られていました。石の状態から見て、江戸末期のものと推測します(まったく根拠なし)。しかし、なぜここに? 市場を作るようなスペースは、境内にはありません。安政の古地図にも、魚河岸の記載はないようです。猟師町があり、品川宿は盛り場で料亭もたくさんあっただろうから、このあたりに魚河岸があってもおかしくありません。あとで調べてみたものの、なぜこの門柱がここに置かれたのか? どこからか持ち込まれたのか? 品川宿に魚河岸があったのか? などの謎を解明する手がかりは、まったく得られませんでした。そこで、魚河岸について何かヒントがあるかもしれないので、半七捕物帳をゆっくりと読み直すことにしようかと思います。
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