旅をたどる11 [NEW]
キリシタン大名 高山右近 – フィリピン メトロ・マニラ [NEW]
400年ほど前にマニラへ行ったキリシタン大名の高山右近は、銅像となって現在のマニラの町の中に存在しています。じっと前をみて、きりっと立っていました。
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旅をたどる11
1614(慶長19)年には、高山右近ら300 名あまりをマニラとマカオへ追放した。右近は家族とともにマニラに到着し、スペインのマニラ総督の歓迎を受けた... 『詳説日本史』(山川出版社)
少し前のことです。
所要でマニラへ行ったときに、“詳説日本史”(山川出版社)を持っていきました。「海外に出るには、やっぱり日本の歴史を知っておくべきだよね」 というきちんとした方向性もなく、なんとなく読むかという感じで、スーツケースに入れていたのでした。
ある晩、ホテルのソファーでオレンジ色の詳説日本史のページをパラパラやっていると、日本人町ということばが目に入りました。「朱印船貿易がさかんになると、海外に移住する日本人もふえ…」、なるほど、そうですか。そして、「1614(慶長19)年には、高山右近ら300名あまりをマニラとマカオへ追放した。右近は家族とともにマニラに到着し、スペインのマニラ総督の歓迎を受けたが、まもなく病死した」 との記述を見つけました。おや、そんな昔にマニラへ来た日本人がいたらしい。ネットで調べると、ここマニラの街の中に、高山右近の像があることがわかりました。さっそく、週末の日曜日に出かけることにしました。
市街を走る LRT1 の Quirino 駅に降りました。高架駅の下を通る Taft 通りと Quirino 通りの交差点からは、急加速するジプニーのマフラーから発射するズバズバ音や断続的なクラクションが飛んできます。ここには、日本とは違った活気がありますね。地上に降りると、小雨模様です。交差点の横には、フィリピンで定番のハンバーガー・チェーン店 Jolliebee の赤い看板があります。さて、右近像に向かって、Quirino 通りを 1 時の方向へ歩き始めます。途中、かっこいいジプニーを撮影し、営業していない屋台の中で無防備に眠っている猫を見つつ、家の前に出した椅子に座って動かないおじさんに心の中であいさつして、妙に白く濁った液体の水たまりを避け、歩道上の踏みやすい場所に所有が放棄されている二本の犬のフンに気を配りながら、30 分ほどでそれらしい場所に到達しました。
あれ? 公園らしいその一角は工事中のようですね。片側二車線の道路の対面には、黄色や黒の模様の縁石や工事中の柵があります。そして、それの向こう側に像の立っているのが見えました。右近像は向こう側にあるようです。しかし、工事中では... 工事エリアの横のほうに、縦模様になる反射板の付いた作業服を着ている男がいました。彼がこちらを向いた瞬間、「私はそこへ入って、高山右近像の写真をとりたいのです」 と大き目の身振りで語りかけると、彼は親指を立てたいいね!型の右手を前に出して、「おお、大丈夫だ、ど~んと入ってこい」 という風な身振りで答えてくれました。すき間旅を重ねた結果、このようなコミュニケーションには慣れて、たいていはこれで済むよう思います。とぎれなく流れる車が切れる一瞬をついて、四車線の道路の横断に成功しました。
黄色と黒の線から構成される工事用の柵の切れ目から中に入ると、Plaza Dilao という文字ある石碑がありました。ディラオ公園、でしょうか。この公園の中、右近さんは芝生のような緑の真ん中あたりで、まっすぐに立たれておりました。正面から対峙です。手には十字の剣を持っていて、そのクロスしているところは、キリストであろうお方が見えます。二メートルほどの台座には、高山右近、と旧字体を使いながら名前が彫られています。マントのような上っ張りには、一つの〇のまわりに〇が六つ配置されている、おそらく家紋だろうものが入れられていました。眉は太く、目は前を見据えています。横には、説明書きであろう銘板があり、LORD JUSTO UKON TAKAYAMAとありますが、タガログ語で書かれているらしく解せません。しかし、400年ほど前に、日本からここまで来たとは。今であれば、飛行機で4時間ほどでこの地に着いてしまいますが、当時は... 着いてすぐに亡くなられたと、さらっと詳説日本史には書いてありましたが、一緒に来たご家族はどうしたのでしょう。どんな船で来たのでしょうか。しかし、どういった経緯でこのようなりっぱな銅像まで建てられることになったのでしょう、などと右近さんと相対しながら考えていると、私に入場の許可を出してくれた作業員の彼の目線に気が付きました。少々小柄で少々太目の身長1.6メートルほどの彼が、入ってきた場所のところからじぃっとこちらを見ています。ああ、そうでした、立ち入り禁止で工事が進行中の状況でした。では撤収いたします。ほんの5分ほどの対面劇でした。
LTR の駅までは、来た道とは別の San Gregorio という道を行きます。この沿道はQuirino 通りの裏筋にあたり、小売りの商店や学校、住宅があってそれなりに人通りが多く、生活臭がありました。そして、ここではジプニーの路上駐車が多いので、落ち着いてジプニーの写真が多く撮ることができます。そういえば、ジプニーも電動ジプニーへと置き換わってゆくという新聞の記事を、先日見かけました。改造マフラーから放出されるドババババッという音も、おそらく電気自動車ではウォィーンというささやきになるのでしょうか。地球温暖化の阻止のためにはいいかもしれませんが、ジプニーからの圧倒的な働きかけがなくなってしまいます。しかし、途中にあったドブ川の臭いが少しきつめでした。私の幼少のころ、昭和も後半の中盤差し掛かった時代には、こんな川もありました。ほとんど流れがない、ペットボトルが浮いている、濃い緑色をした水には所々に泡が沸き上がっている、得体の知れないものが浮いている。野良犬を見かけはしましたが、歩道にフンが仕掛けられていることはありませんでした。さて、いつみてもかっこいいジプニーの横面の写真を撮ります。
Quirino 駅から戻りのLTRの車内で、マニラの街中には教会がたくさんあることを思いだしました。日曜日になると、教会の中に入れない人たちが、教会の外で漏れてくる神父さんの話をじっと聞いています。フィリピンでは、多くの人たちがキリスト教徒だと聞きました。知り合いのフィリピン人も、一緒に歩いていて教会の前を通ると、立ち止まって胸の前で十字を切りました。そういえば、30と数年前に、独裁政治を続けていた当時のマルコス大統領を退陣させた革命は、エドゥサ教会から始まったのだと聞きます。右近さんが来た時代の教会も、人々のパワーが集まり昇華するような場だったのかと、子供がプレーするゲームのピヨピヨ音が耳にさわる電車の中で想像するのでした。
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