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旅からおもう7

30と数年前の香港にあった九龍城 – 香港

調べものをしていた時、「九龍城」 という言葉を見かけました。そういえば、中へ入ったことがあります。ただ、私がはじめて香港へ行った30年以上も前のことです。その時のことはまだ覚えていますが、やはり危険な感じだったので、早々に引き上げたのでした。

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 私が初めて香港へ行った、1986年のことだった。悪の巣窟と言われた九龍城が、まだそこに存在していた。当時一緒に仕事をしていた香港人に、「九龍城を見たい」 と興味本位に言ったとき、彼は真顔で 「そこはだめだ」 と答えた。彼は銭 (チン) という名だった。最初に銭と会った時、銭は私に、「昔、日本人が中国人に何をしたのか知っているか?」 と問いかけ、私は、「二度と同じことをしてはいけない」 となんとか答えた。そんな問答はそれきりで、あとは昼めしに一緒に行ったりするような仲になっていた。

九龍城公園にある九龍城を上から見た模型

 銭の事務所で仕事が終わって、引き上げようとしていたある日、いつもの水色の短パンに白いTシャツ姿の銭が 「今から九龍城へ行くぞ。手には何も持たずに」 と言ってきた。事前に、この日に行こうかといった会話はまったくなしに。

 九龍城のまわりには少し空き地があって、そのせいで全体が見えてきた。火事で焼けたように黒ずんだ壁、一階には 「牙科」 と書かれた看板、ビルとビルのすき間からは、人が出入りしている。ビル同士がもたれ合って建っているような感じがした。ビルの集合体は、近づくほどに威圧感を増してくる。「犯罪者はここへ逃げ込むと、警察は中まで追ってこない」 「中国からの違法移民は、まずここへ駆け込む」 「麻薬、賭博、密造…」 こんな言葉を思い出して緊張した。

 「牙科」 は歯科のことだ。なぜかこんなにもたくさんの歯医者がいるのか。医院の入口には、歯をむき出している写真が何枚も貼られている。それらの色あせた写真から、あやうさが立ち上る。銭は、「ここの医者は、免許を持っていないんだ」 と言う。無法地帯か。医院を回り込むようにして、ビルとビルのすき間から出入りする場所に来た。そこには、じゃばじゃばと絶え間なく上から水が落ちていた。出入りする人たちは、避けながら歩く。上を見ると、大小のパイプがたくさん走っていて、そのうちの数本が水を落としているようだった。しかも下水だろう。そういった臭いが強弱をつけて鼻に入り込んでくる。

九龍城の模型の接写。ビルとビルのすき間に出入り口がある

 中へ進むと、トンネルのような通路で、真っ暗にならない程度に蛍光灯が付けられていた。空気は湿っていて、カビのようなにおいもする。足元もデコボコでジメジメしている。そして、所々で通路が分かれていて、複雑にからみあっているように思える。何か機械が動いているような音が聞こえている。老婆や子供たちが歩いている。ケーブルのようなものが、頭上に丸く固まっているようだ。銭が急に、広東語で話しかけてきた。そう、英語などを使ってはいけない。しかし何を話しかけているのかまったくわからないので、ただうなずくだけだった。その銭の目は、いつもよりつり上がっている。

 少し行くと十字路になっている広い場所があって、横に小さな売店があった。また、銭が広東語で話かけてきて、パック入りのジュースを二つ買い、その一つを私に放り投げてきた。菊花茶と書いてある。その場で、ぐっと飲んだ。すると、菊の匂いが、さぁっと鼻を抜けた。

 さらに前進しようとすると、銭が顔を左右に振って、親指をぐっと出し 「戻るぞ」 と合図をしてきた。これ以上の深入りはやめた方がよさそうだ。上半身が裸の目つきのするどい黒く焼けた細身の男が奥の通路から来て、横を通り過ぎて行った。

 迷わないようにもと来た道をたどり、下水の滝をよけて外へ出た。この中にいる人たちにも生活があるのだ、あの歩いていた女の子のこの先はどうなるのだろう、などと考えながら、太陽がまぶしくて目がよく開けられずにいると、飛行機のエンジンが出す金属音が聞こえてきた。

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