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子供たちがいなくなる – 東京都中央区 一石橋迷子しらせ石標

東京のビル街の中に、江戸時代に建てられたという「一石橋迷子しらせ石標」があります。この石標は、迷子になった子を尋ねた紙を貼りだすのだと聞いて、人さらいという文字が思い浮かんでしまい、何だか少し恐ろしくなりました。

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 江戸時代の末期に描かれた一石橋の絵を見ると、橋の上には多くの人たちが行き来して、荷物を積み上げている大八車も通っています。また、刀を腰にして笠をかぶった侍、旅人やぼてふりも歩いています。迷子しらせ石標は、こんな場所にあったようでした。

一石橋迷子しらせ石標

 石標は、西河岸町の人たちが安政 4年に建てたそうです。安政4年(1857年)というと、米国の使節のハリスが、第13代将軍の德川家定と会見したり、貿易のために江戸の町にアメリカ人が駐在したりするなど、10年ほど後の維新をひかえ、世の中は忙しく動いていたのでしょう。江戸の人口も120万人を超えていたようです。こんな中、家族で呉服町など繁華街を歩いているときに、ふいに子どもを見失うことがあったとしても、おかしくはない。迷子は、そのころ日常的に起きていたようです。当時、迷子を保護した町が責任をもって面倒をみて、親を探しだし送り届けるという暗黙の了解があったそうで。迷子とし育てられて、親がわからないままに成人する子どもたちもいたとのこと。迷子がでることは、町にも親にも大きな負担になっていたようです。

 迷子が社会的な問題となっている状況を心配した八代将軍の吉宗のころに、迷子石標の前身となる掲示場を芝口(今の新橋あたり)に設けて、身元がわからない人のことを掲示したそうです。しかし、当時江戸のここ一か所にしかなかったことから、あまり機能しなかったのでしょう。大阪でも同じように多くの迷子が起きていて、これを少しでも解決するため、1800年頃に寺の境内などに迷子石が建てられました。これが江戸にも伝わり、迷子石標になったようです。その後江戸では、同じような石標が人の多く集まる浅草寺境内、湯島天神境内や両国橋橋詰などに建てられました。

一石橋迷子しらせ石標の側面

 一石橋しらせ石標には、左右の側面には同じ大きさの窪みがあります。大きさは、半紙よりも少し大きい程度です。迷子の特徴や服などの手がかりを書いて、ここにその紙を貼りました。雨よけの屋根などがなかったら、雨に濡れてたちまちはがれてしまうでしょう。右側面には「志(し)らす(類)る方」と書いてあり、迷子を面倒みている人や見かけた人などが、子供の特徴などを書いた紙を貼る。左側面には「たづぬる方」と書いてあり、迷子の親が紙を貼ったそうです。石標は風化して全体が黒ずみ、くぼみには所々に緑色の苔が付いている。このくぼみに貼りだされた紙を一枚つづめくって、自分の子がいないか調べている親の姿があったのでしょう。

 一石橋迷子しらせ石標を見たときに、「迷子=人さらい」という構図ができてしまいました。だから、少し恐ろしい気がしいていました。しかし、迷子石標のことを調べると、そのようなことはなく、迷子になった子は町の人たちが面倒をみて、きちんと親元へとどけるという仕組みがあるのだとわかりました。しらせ石標をいろいろな場所に建てたあと、迷子が見つかり親元に帰されることが多くなったそうです。何だかほっとして、東京のビルの根元にもきちんと江戸が残っているものだと、あらためて感心しました。

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